<56>「過剰へ」

 ズルについて、もう一度考えてみよう。考えてみようと始めてみたが、もう答えは出ていて、あなたが考えているズルというものを剥いでいくと、何にもなくなるのだということ、つまりズル剝けだ。

 ズルの集合、ズルの結晶、それが私であって、それ以外のものではあり得ないのだ。であるから、私のなんとなく気が咎めるのは、ズルそのものではなくて(それは紛れもない身体であるのだから)、ズルの過剰だ。しかしその過剰、私でないものの往来こそが豊かさを形成するのであって、もちろん現在の身体も、過剰も過剰な供給によって培われてきている結果なのであった。目や耳や鼻から入ってきた刺激をそのままに、勢い込んで流れ出させることに対して、気が咎める、私の力を超えているのではないか、そりゃそうだ。逆に言えば、そういった刺激がない状態に一時的に身を置いて何かを表していれば、自分の力の範囲を出ていることにはならないと考えているのがそもそも思い上がりなのだ。生まれたばかりの赤ん坊でもあるまいし。どんどんと過剰を受け付けていればいいのだ。過剰の程度がひどくて嫌気が差すほど、お前はまだまだ何にも取り込めていやしない。もっともっと取り込んで、重さに圧倒されて、どすんと倒れるまでになってみなければ。彼は平穏を望んでいた。しかし決して過剰を斥けていた訳ではなかったろう。