<98>「立場のない穴」

 逃走していく、必ずこうやって通っていく方法があるんだ、それを勝手に借りもし、また、別のところで独自に見つけもし、何かから逃走していると考えてはいけない、逃走は逃走の為にあり、そうでないと、何かからの逃走では行き止まりに向かって走っていることになる。

 さて、視力や眼球などに関わりのないところで、即ち私は見るということなのだ、それは、見ることが私というものの役割であるのではなく、見るもの、それが私なのだ、そこは穴と呼ぶにふさわしく、無思考というものすらない、形がないのだから当然だが、どこにあるのかは分からないが、穴が開いているという感覚だけはあって、それだけが統合を保証している、つまり不変のもの、明らかに別人であるはずのものを同じところへ、ひとつに繋いでいるのはその同じ穴を通った、あるいはその視界に入ったという事実だけで、もちろんその穴はそれらを通したからといって穴でなくなる訳ではない依然として穴でありそれ故にこそ同一性を保つ、つまりアイデンティティというのは穴のことなのであって、決して所属などのことではない。肉体は移り性格は変わり考え方も変わりてんでばらばらになって別のものになるのに、何故同一人であるか、それを保証するのは記憶だと思っていたのだが、記憶はいくらも変わるし物質に密接なものである。穴と眼球の違いは判断や立場があるかないかということで、つまり眼球及び脳を使って見る場合にはどうやったって色眼鏡がかかるから、なるべくそれを払うように努めなければならないのに対し、穴はそんな努力とは一切関係のないところで全くの穴だから曇って見ようがない、意識的に見るとかなんとなく見るとかのこともない、その代わり私でありながらその透明性、真黒さを私のものとすることは出来ない、それはひとつの立場を獲得しようという試みだから必ず失敗に終わる、つまり穴は立場にはなり得ない、あるいは立場的なものは穴に触れ得ない。これは記憶とは違うということが大事だ、記憶というものを全面的に見て通過させている、様々な記憶が、そこの同じ穴に通過したという事実によって私というものの同一性が保証されているのであって(穴は私なのだから当然と言えば当然だ)、寝ようとしているときなどにふとこの穴の存在に改めて気づかされるようなそんな具合であって、そういうときに同時に思い出すエピソードなどのようなものと、穴は別のものである。