<116>「やることとかではない」

 ただの存在だ、ただの動きだということが強く意識せられるようになってからというもの、意味を見出そうとする問いは、ポジティブなものであれネガティブなものであれ、全てが失敗に終わるよりほかないのではないかという気がしてきている。「一体私は何の為にこの世に・・・」「あの人の生涯は一体なんだったのか」「どうせ死ぬのに何故」「一体全体それをやったからといって、だから何だというのだろう」などなど、何だったのかという意味を問えば、それは当然何でもなかったとなる、ほらやっぱりねとがっくりくるのは、意味の領域では問えないものを無理やりに問うているからである、運動している存在に対して、きっと何か意味があるはずだという形で入るから、どう調べてみても意味というものはなかった、では無意味ということではないか、がっくり、となる、しかし無意味というのは意味というものを想定しなければ出て来ようのないものだ。存在はそんな想定など関係ないところで生成し、消滅し、それを繰り返す、ということは、私は無意味ではないし、そもそも意味でもないのだ。ただ存在するというのはそんなに怖ろしいことなのか、意味や意義から入ってそこに何事かを見出すか、逆方向に動いて無意味に落ち着くかしなければいられない存在なのか(意味の領域に入って判断するというところが全く同じで、方向が違うだけなので、意味だ無意味だという争いには興味が無くなってきている、その領域で存在を判断しようとすることに無理があると思っているので、その領域内での結論がどちらであろうとそんなことはどうでもいい)、ただ動いているものとしてある、というのはそんなに不快なことだろうか、だって見出さなけりゃやることがない(何をやったらいいか分からない・・・)、やることがないのではない、やることとかではないのだ。しかしまあ、ただ存在しているその渦中にありながら、それをそのまま把握し理解することの難しさが尋常一様でないことはよく分かっているつもりではいる、やることがないのならまだいい(見出せばいいのだから)、しかしやることとかではないとは、どういうことだろう・・・。