<128>「穴、私がない」

 私が無いというのは、自分を後にして他人に尽くすという話とは関係のないような気がしている。尤も、これは実感であって、昔の仏教の考えなどがそのような利他を指して無私(あるいは無我? 別物?)と呼んでいたのではないのではないか、と言いたい訳ではない、また、利他を否定する訳でもない(ここらへんは無私と無我の違いなど、知識が曖昧で、どう考えていたのかを学ぶ必要あり)。自分が無いと言うとき、私にとってそれは、同一性を保証するものは穴、空洞であるという自覚の存することを指す、物質は入れ替わる記憶は変容する思考(志向も)は移る(全く反対のものを平気で示したりする)、それら確実に違うものへと移っていってしまうものの全体、その同一性を保つものは、何もない穴のようなものでなければ仕方がないという思い(それが何か物質的なもの、働き的なものであれば移ってしまう)、そうでなければとても同一性などは保たれないのでは・・・。そういえば、顔はその人の同一性を保証しやすい、というのも、ああ、あの人だとまず確認するのに使われるのは顔である、ただ、それは穴が多いことによって同一性の認識し易さに寄与しているだけであって、穴そのものではない、例えば赤ん坊の頃の写真を出されて、

「これが幼い頃の私です」

と、もう充分に歳を取った大人に言われても、ああと言われるまで気がつかないことが多々あるように、完全な同一性を示すものとして、顔はやはり不十分だ。

 意気消沈しているとき、意気揚々としているとき、明らかにそのふたつは状態が違うのに、そのふたつの状態が共々通過したことに「気づく」もの、しかし気づくだけで意気消沈をどうするなどの働きは担わない、この隅々にまで渡った視野、大きな目、何らかの働きではない空白の穴が私だ、つまり私は無い。

 だから何だ、自分が無いという自覚、穴であると強く意識することによって何を超えたいのかといえば、例えば自信があるとかないとか、幸福であるとか不幸であるとか、もっと身近にだるいとか元気であるとか、そういうものを解消する、全く関係なくなってしまう身体の動きを掴みたい、あるいはそう動くはずのものと結び合わせたい、私が無いのであればそれは可能だという気がする。