<141>「もし目が飛び出ていたら」

 少々化物じみた表現になるが、例えばもし人間の目玉が、虫の触角のように、眼窩からいくらか伸びた線の先にくっついていて、ひねりを加えさえすればその先っぽについた目玉は、360度どこでも見渡せるようになっていたとすると、鏡の役割を為すものを介さなくても、自分の目で自分の身体を見ることが出来るようになる訳だが、そういう見方を得ると、きっと自身を風景の一部とみなすこと、全体に溶け込んでいると考えることもいくらか容易になる気がするのだが、尤も人間の身体は実際そのように出来ていないのだから、容易になるのかどうかは分からない。この細い線で繋がった先の身体は、はて自分のものなのかどうか。自己とは、見えないことではないだろうか、それは、全部ちゃんとは見えないことと言い換えた方が良いかもしれないが、自己というのは、身体とそれに埋め込まれた眼球との共犯関係の上に成り立っているもののようにも見えてくる。風景になることを拒否する。目に負っている部分が大き過ぎて、私というのは大体目線の位置にいるような感覚があるのだが、もし見えなくなったらどうなるのだろう? 眼球が嵌まっていればそれはそのままで影響がないのだろうか? 見えるということはやはりひどく関係しているのか?