<149>「著しく不自由と、そうでもない不自由」

 著しく不自由な状態と、そうでもない状態とがあって、大体はそのふたつに分けられるのではないかと思っている。ここで自由、本当に自由な状態というのはないのかという問題があり、私は、そういうものは想像の中だけにしか存在しないと考えている。あるいは仮に存在したとしても、決して耐えられるような状況としては現れ得ないと思う。つまり快適な、それでいて全てから解放された自由というのは、状況の設定遊び、言葉遊びになりかねない。それは身体構造や精神構造の問題なのかもしれないが、まるで制約がない、モデルもない、道もない、あなたの出す一歩一歩が全く自由だという状況を想定すると、矛盾するようだがそこには大変に重い制約がまたどこからか現れてくることになる、それは究極のところ、生きていても生きていなくてもいいという事実の重さ、完全な自由というのはそこまで行かなければ嘘だろう。そこを避けて求められる「本当の自由」は、既に言った通り、設定遊び言葉遊びになる、つまり言いようによって何でもありになる、そうするとおそらく迷走する、こんがらがる。それよりは、著しく不自由な状態に陥ることだけを注意して、巻き込まれそうになったらいち早くそこから外れるという対処をすることだけを想定している方がシンプルで分かりやすいだろう。また、混乱もしないだろう。受動的な態度であるかもしれないが、あるはずの本当の自由というものを追い求めて、次々に色々なものを外し、そのことによって逆にまた、新たな違った重荷を背負うようになるよりかはいくらかマシだろう。