<183>「ドアの開けざま」

 教育欲というようなものの現れを見ると、いつも、う~んと思ってしまう。それは自分にもある類のものであるから尚更だ。つまり、自制すべきものなのではないか。こういうことを考えている、疑問に思い続けているが、上手く響いて行かない、というイライラは分かるし、私にはその人の話がよく響くだけに、同じようにもどかしくもなるのだが、そこから、

「じゃあもう、今いる人たちは仕方ない。これからの将来を担う子どもたちを教育しよう」

というところへ話が繋がっていくことには反対だ。それは、今いる大人たちを否定しているからではない(それも良くないことではあると思うが)。そこから、まだ何もよく分かっていない子ども(つまり一番与しやすい対象)を、自分の理想通りの型に作り上げていこうというグロテスクな欲望、暗い欲望を感じるからだ。たとい、そんなつもりはないと言おうとも、無自覚であればこの暗さは解消される訳ではない。

 すると私は、教え導こうという姿勢そのもの、そんなことをするのは当たり前だと考えられているもの全体に対する反発を感じているのかもしれない。もちろん、子どもへの教育が全く放棄されていいと考えている訳ではない。ではどうするか。手持ちのものを全部提示して(何ものも隠さず)、そこから後は、当人の学習意欲にただ任せておくほかはない、つまり、子どもの意欲を挫かないように気をつけて、惜しみなく開いていればそれで充分だしまた、それ以上入って行くべきではないと考えている。自分の言っていることが響いていかないことに納得がいかないから、子どもに狙いをつけてどんどんと考えを吹き込んでいこうというのは、いかにその内容が美しく見えても、やはり危険なことなのではないだろうか。もどかしくても、考えを述べる側は純粋に考えを述べるにとどまり、響くか否かは完全に受け取り手に任せなければいけないのではないか。