<185>「好奇心と問題」

 高尚な話題、規模の大きい話題に関心を持っているときに忘れがちになるのが、それがとても楽しいと感じられているから参加できているという事実だ。どんなにか過酷な、悲惨な現実に向かっているときでさえ、楽しさは裏にびっしりとくっついている(楽しさで抵抗があれば、興味深さでも何でもいいのだが)。しかしそのことには、そこに対する興味が外れてからでなければ気がつけない。例えば、あまりに確率が低いために、今の今まで一度も事故や事件に出会わなかったが、そこから、出会わなかったのは自分がちゃんとしていたからだ(出会った人は皆、どこかちゃんとしていなかったのだ)と考え出したくなる誘惑にはなかなか抗し難く、実際に、どうしても避けられなかった事故などに遭ってみて、ああ、ちゃんとしているとかしていないとかはあまり関係が無いこともあるのだと気がつけるまで、そう考えたくなる誘惑はなかなか去ってくれるものではないのと同じように。

 興味を持て、あるいは、このことには多くの人が関心を持っているのが理想的で、そうでない現状はマズい、というような捉え方をいくらしようが、おそらく何の関心も引き出してくることは出来ない。物事が悲惨であろうがそうでなかろうが、どうしてもその人がどこかに楽しさ(興味深さ)を自分から見出せなければ、興味を持つことなど出来ない。であるから、大事な問題(と一般的にされている)に全く関心のない人がいても、私は何らの批難をも加えることが出来ない。自分だって、どこかに楽しさがなければこの問題になど入っていけはしなかったことをよく知っているからだ。