<253>「私はどうしたって日常だ」

 繰り返しの道順が先に見えてしまうことに何か苦しさがある。実はその繰り返しの作業内容自体は大した苦しみも齎さないのだが、迎えたくないという訳でもないのだが。頭の中で先取りされることに苦しさはある。またちょっとしたら同じ場所に戻るのに、わざわざそこから引き揚げていくことの面倒さ。だが、留まっていれば快適という訳にもいかない。どちらにも進みたくないし留まっていたくもない、これが倦怠だ。留まっていたいというのは倦怠感ではないのだろうか? いや、そうとも言えないだろう。しかし、留まっていたいという気持ちがある上で留まっているだけに、まだマシな倦怠だと言える。

 十数時間もしたらまた戻らねばならない、それは確かな話だが、そこには何か想像の過多がある。「また」行くのには行くのだ、しかし新たに行くのだ。そこは未知であるはずだが、あまりに同じ道をなぞり続けていれば、大体の見当はつく。倦怠的想像の優位はそうして不本意にも立ち上がる。私は日常であり、日常は私でなければならないというのが、一番の倦怠であり、訳の分からない憤りの源であるのかもしれない。