<266>「効用とかではないものは」

 効用がないもの、正確に言えば、「効用とかではないもの」について、支持したり、擁護に回ったりすることにはとてつもない難しさが付き纏うなあ、といつも思っている。

「どうしてそれが必要なのですか?」

「別になくてもいいのじゃないですか?」

という質問に滅法弱い。効用があるかないかの発想しかないのは少し寂しいことだとしても、確かに言われていることはその通りだからだ。弱すぎて逆に、効用とかではないものに対するこの手の質問は、もはやフェアではないとすら思っている。この質問に真正面から答えるとすると、効用とかではないものの効用を説かなければならなくなるからだ。これでは、最初から無理難題をふっかけられているようなものである。

 効用とかでないものは説明しない。というより、説明とは相容れない。何かを説こうとする行為自体が、効用(の意識)と直接に繋がっているからだ。説明しないものは、何で説明しないんですかという圧力に抗する術を持たない。術を持てば、即自分も効用に変化してしまい、矛盾になる。

 効用とかでないものを何とか守るためには、泣く泣くそれを効用に変化させて認めさせるしかないのだろうか。しかし、それはとても萎える運動である。もちろん矛盾でもある。こっちでは、効用とかでないものと、ちゃんと付き合う術を持っていたのに・・・。そうすると、なるたけ見つからないようにするのが一番ではあるのかもしれない。それでも万が一、

「それは必要なんですか?」

という質問に捕まってしまったら、その質問に正面からは答えず、そもそも、効用か否かだけで物事は全部分けられるのかどうか。効用がない、ではなく、効用とかではない領域も存在するのではないか、という話を展開するしかないだろう。尤も、それも結局は説明で、効用を説いていることにはなるのだが・・・。

 効用とかでないものは、そっとしておいてもらわない限り、とことんまで押されてしまうものである。そういう言わば宿命みたいなものを持っている。