<355>「関心と無関心のバランス」

 関心と無関心を同じ位置に(高さに)据えたいのだ。良い方と悪い方という捉え方でなく、関心と無関心が同じくらいあることによってその場が安定するというような。絶対に皆が関心を持つべきだと信じられている問題においてさえ、本当に皆が皆関心を持ち出すようなことになったらいけない。まあ、いけないということもないのだが、皆が関心を持ち出すと、その問題の当事者たちも、関心を持ち出した周りの皆も、同じようにしんどくなる。もちろん、だからといって全体に無関心が拡がればいいという訳ではなく、先述したように、関心と同じだけの無関心が、無関心と同じだけの関心があるのが一番いい。その割合が、どちらかに偏っていくようなことになると、しんどくなる。

 しかし、何もしていないことの効用は分かりにくく、興味を示さない人間に対する感謝は難しい。以前にも書いたように、それは異常に冷たく、感じ悪く見えるからだ。これだけ重要だと思われる(皆が重要だと当たり前に信じている)ものに対して興味を抱かない人がいるのかという虚しさそれ自体が、その一方で空気、空間を作ってもいるのだ、ということは言っておかなければならないだろう。

 いかにそれが好意的なものであったにせよ、問題の当事者たる人間の周りに、皆の関心が延々と渦巻くような状況があったとするならば、その当事者は、吸える空気も見つけられないままにあっという間に窒息してしまうようなことになるだろう。