<420>「書くというコミュニケーションの自由さ」

 習慣的なものであるとか、常識、ある種の教育がなければ、そしてそこへきて、

「観客であっても別に自由に、退場したいときはしてもいい」

という空気が当たり前にあったとしたら、誰ひとりとして観客席に座り続けていることはないのではないか、というのは私の妄想か。別に今の世の中でも退場は全く禁止されていないが、疲れて帰りたくなったとしても、義務感からか、立ち去ることの申し訳なさからか、最後まで座っている人がほとんどなのではないか。観客という立場はいやに縛られすぎている、というのは、一般に拡げて考えていってもそうなのかあるいは私だけなのか。二時間も三時間も何かを見ている、しかも場所を固定されたままで、という場合、これは半分以上、いやほとんど我慢なのではないだろうか。本当に興味あるものを見ていれば、そこに我慢はない、あるいは全くないとは言わないまでも、ほとんどなくなるぐらいにはなるのだろうか。

 つい先日、自分が退場しないことに心底驚いてしまった。意志が弱いのだと片付けてしまえばその通りでもあるし簡単なのだが、それ以前に、そんな行動、選択肢があるということ自体に今まで気づいてもいなかったことに驚いたというか、そこで驚くことによって初めて、自らの観客の歴史とでも呼べるもの(大袈裟だが)は、始まる前の僅かの高揚とその余韻の20~30分、それから後は我慢で成り立っていたことを知るに至ったのだ。いや気づくのが遅すぎた・・・のか? 気づいて良かったのか良くなかったのかはいまいち分からないが、そう言えば、行く予定だったものに行かずに、観客としての役割を果たさないことにしようか、などと考えて、妙にわくわくしていたことなどもあったが、結局はそれも我慢と退場に関することだったのだ。

 本、あるいは書かれたものを介したコミュニケーション、こう言ってよければパフォーマンスの、優秀さというものをそうなると考えざるを得ない。観客は、いつ入場してもいいし、いつ退場してもいい。僅かの時間で入退場をめまぐるしく繰り返し続けてもいい。もちろん、長い時間入場しっぱなしでもいいし、退場しっぱなしでもいいのだ。例えば映画館で見る映画などは、退場したいときにしたっていい、そしてまた戻りたいタイミングで戻ってきたっていい、のだが、ものによっては、一旦退場すると、その時点で内容が分からなくなってしまう危険性があるものもある(重要な場面をちょうど見逃すかもしれない)。それを考えると、退場はなるたけしない方がいいとなるし、もし仮に、そんなに頻繁に退場したいのならば、そもそも来なければいいということになる(すると家でDVDなどで見る分には映画も別に我慢にならなくて済むのかもしれない)。また例えば公演などの場合、建て前はそりゃいつ退場したっていいということになろうが、その動きはダイレクトに演じている人に伝わるし、他の観客にも少なからぬ影響を与えることになる。自由に出ていっていいとは言っても、それでぞろぞろと途中退場者が出たとなれば、さすがに周りをざわつかせることとなろう。そういった諸々の要素を鑑みて、やはり大方の人はどうしても、終了までは立ち上がれないという判断を下すことになるのではないか。窮屈だなと感じてはいても、である。絵を見るなら美術館ではなく家で(複製品でも良いから)と以前に書いたのも(<350>)、入退場の自由さ、我慢の問題が関係している。

 目と目を合わせ、面と向かってのコミュニケーションが重要であることは間違いない。それを欠いても大丈夫なのだ、とは思っていないが、一方で、書いて渡す、あるいは見せるというコミュニケーションが優秀であり過ぎることは、ずっと昔から変わらないことなのだろう。世の中には、「人間が出来ている」人も多いから、どんな話でも、いつまでも聞いていて、それでいて嫌な顔ひとつしないようなところがある。ただ、そういう人でも、心の中では退場したいと思っているかもしれない。表情こそ笑顔だが。それでも平気で話せるという人はいるだろうが、そういう人たちの前に立って私はいつも、一体どこまで喋っていいものやら全く分からなくなるので(表情で判断する訳にはいかない)、黙っているか、必要最低限だけ喋るようにしている。しかし一方書かれたものは、私の知らないところで、相手は遠慮せずに、無視したいときは全くもって無視しているだろうし、興味のあるときはその興味に沿う分だけ読んでいるのだろうことが分かるから(またそれが向こうで可能であるから)、サッパリ出来るし、ほっとするのだ。こんなに上手に相手とコミュニケーションが取れるものだろうかと思うことすらある(相手のリアクションは全く見えないのに不思議なことだが)。そうすると、手紙の重要性などというのはいつまでも失われないと思うのだが、やり取りが全体的に少なくなっているのだとすれば、面と向かってのコミュニケーションが上手くなり過ぎているのか、実は我慢をしているのか。メールでもいいのだが、メールは何故かメールのような文になってしまうから不思議だ。相手からのリアクションが早く届きすぎるのだろうか。