<445>「根の不安」

 外側から眺めれば、その紆余曲折も、激しい勢いも、ただ微笑ましさと驚嘆であるだけなのだから、特に気にする必要はないというか、限定だけで物事が考えられる必要もないのだ。ただ、この限定が全てであると、当事者は思っているというか、それが当事者であるということで、外側からの眺めとか微笑ましさを知らない訳ではない(伝記は好きで、読むこともあるのだ)。焦らなくなるためには、常に焦りの中にいるということを知るのが一番だ。

 根本から逸らさないというか、逸らせない人間は、活動も当然根本的なところへ落ち着くというのか、これは終わることがないのだという感じがするし、また、終わらなくてもいいものなのだろう(未完という響きは、何という響きなんだろうか!)。

 根本の動きは空虚であり、基本的であり、達成感があるんだかないのだか、物足りなさを訴えているとも思われないし、第一空腹だとか満腹だとかを感じない器官だ(本当はここでも感じているのかも分からないが)。だから、これはひたすら動きであるよりしょうがないのではないか。

 例えば、次に来るのが「あ」と「ん」ほど違ってしまっていても、全体としてみればそれはやはり私以外の何ものでもないというのはどういうことだろうか。こんなことは自身では分かりかねるが、全く正反対のものが同じものとして立ち現われるだけの不思議としてここにある。