<448>「多様性と同質化」

 物事には必ず良い面と悪い面がある。人は、頭でものを考えることが出来た。それが様々な発展をもたらしたことは間違いない。では、悪い面は? 非人道的、不道徳的な行動の元になることを考え出してしまうところにある? うん、それも間違いではないかもしれないが、それはほんの些細なことのひとつで、もっと大事な点は、同質化を避けることが出来ないというところにある。頭でものを考える生き物は、多様性と絶望的に折り合いが悪い。

 多様性、多様化ということがやかましく言われるようになってきている。しかし、これは完全に私の考え間違い、想像し間違いであってくれれば嬉しいのだが、多様性というものを皆が真剣に頭で考えれば考えるほど、世界の様相は同質化の方向へ向かうような気がして仕方がないのだ。あれ、こんなに真剣に多様性について考えているはずなのに、また全体の表情がうっすらと同じようになってきたぞ、もっと真剣に考えないと・・・となってますます同質化の沼にハマっていく映像が見えて仕方ないのだ。

 例えば、国の問題がある。それは移民の問題であったり移民だけの問題ではなかったりもする要するに様々な訳だが、あるひとつの国がこういうふうに先頭を切るとする。ここには、皮膚の色の違いだとか民族の違いだとかを越えてあらゆる人々が集まっている、これこそ多様性ではないかと。それで、そうだそれこそ多様性だ理想的じゃないかという動きが他の国々にも拡がると、民族の数も少ないし皮膚の色も基本的に同じ人々が住まっている国は、内外からの圧力を感じることとなる。そういう国も、いつまでも流れに逆らっている訳にもいかなくなり、積極的にあるいは消極的にその両方の面からごちゃまぜの多様性へと移行していくことになる。これで、世界のあらゆる場所で理想的な多様性が達成されて、良かった良かった素晴らしい・・・となれば幸せなのだが話はそう簡単ではない。ここで既に、多様化を実現したはずなのに、まず大まかな同質化が起きてしまっていることが分かる。即ち、

「どこの国を見てもごちゃまぜである」

という同質化が。旅行へ出ても、景色、天候気温などの差があるだけで、そこで暮らしている人々が織りなす風景、その混ざり方というのはどこの国を見ても同じということになる。自国で見ているものと同じ。他国へ行っても他国の人に出会ったという感じが極端に薄くなっているのを感じるだろう。

 まあ、そうは言ってもこれはまだまだ大まかな同質化で、現にここには色々な人種、民族が暮らしていて、こんなに分かりやすく多様性を感じられることもないではないかと。しかし、別々の背景を持った人々が同じ場所に集まって暮らしていると、大まかだった同質化も徐々に徐々に厳密なものへと進んでいくのではないか。まずは言語だ。そこには当然生活があり、経済があり、政治がある。皆がバラバラの言葉で話していて、それを丁寧に逐一通訳して・・・とやる場面もあるにはあるだろうが、大方の場面では、そんなことまだるっこしくてやっていられないということになるだろう。すると、何か適当なあるひとつかふたつぐらいの言語に白羽の矢が立てられることとなり、それらは共通言語としての立場を確立していくことになるだろう。そうすると、まだるっこしさが求められていない場面では主にこれら共通言語が使われるようになり、各々の母国語というものは、プライベートな空間のみに引き下がることになる。まあ、それだけならまだ、各々がしっかりと、己の内に母国語を持っているのだから大丈夫なのではないか。そこで次に結婚などの問題が来る。ごちゃまぜに皆が暮らす、それこそ多様性ではないかという発想で進んできた人々が、様々な組み合わせの結婚というものを許さないはずがないだろう。すると、そこには当然子どもも生まれるだろう。さて、各々の親は、自身の母国語を真っ先に教えることもあるかもしれないが、子どもが社会に出たときに、なるべくまだるっこしさに直面しないようにすることを考えると、どうしても共通言語を中心に教えていくことになるよりしょうがないだろう。するとその子どもは、たとい各々の親の母国語を教えられていたとしても、その馴染み深さは、親に較べると格段に落ちることとなる。するとそのまた子どもは? そのまたそのまた子どもは? おそらく、何代か進んだ後には、共通言語しか残っていまい(言語が消える・・・)。

 また、様々な組み合わせの結婚をしていくことによって、最初こそ、多様性に満ち満ちているように見えたものが、次第に同質化の方向へ向かうというか、何代も何代も重ねていくと、その子孫に人種や民族の違いを(あるいはその名残りを)見留めることが非常に困難になっていることに気づくだろう。例えば、どうも同じような顔つき、色合いの人々が暮らしているようにしか思えない日本という国、その中に住む日本人というものは、実は様々なタイプが混ざり合って形成されてきたのだ、ということが分かっているのだ(単一などではないということ)。しかし、今周りを見渡してみても、その様々のタイプ、いろいろの違いというものを、正確に見留めることはもう難しくなっている(勉強し、厳密に見れば分かるのかもしれない)。

 これに加え、ごちゃまぜの考えが進むところまで進み、

「これだけ様々の人々が混ざり合って共存しているのに、国という仕切りがあるのはおかしいのではないか・・・」

となると、多様性を目指したはずの営みは、あらゆる多様性を失って完全な同質性を達成するという、何とも皮肉な結果に落ち着くこととなる。つまり、他国を失い、種々の言語を失い、人種を失い、民族を失い・・・。何処へ行っても同じような顔、同じ言語を話す人々。それらの人々が地球のありとあらゆる地点で、

「多様性万歳!」

という同じ言葉を叫ぶ・・・。

 こんなことにはならないし、万一なったとしても、そうなるまでには途方もない時間がかかるはずだから、お前の生きているうちはそんなこと心配しなくていいんだよ・・・。そうなのかもしれないし、そうであってほしいのだが、もし、人々が、多様性ということを目指しながら、それとはまるで違うことをしてしまっているのなら、今少し立ち止まって考える必要もあるのではないかと思うのだ。

 では、それこそ今問題になっているように、排除々々でやっていくとでも言うつもりか、様々な人が一緒にやっていくのを拒否するとでも言うつもりか?と思われるかもしれない。しかし、頭で考える生きものの、避けがたい同質化作用というものを憂うからといって、排除が、取るべき選択肢、それに対するカウンターパンチだなどとは露ほども思っていないのだ。それこそ、

「頭でものを考えたとは思えない」

蛮行には、ただただ驚くばかりである(そこにまた悲劇がある。多様性を真剣に頭で考えている、その行為の中には良心がちゃんとあるのだ。しかしその良心の働きが、物事を同質化に向かわせてしまっているという悲劇が・・・)。しかし、頭だけでずんずん進んでいるのではないが故に、生理的な強さを持っていて、それが少なからぬ人々を惹きつけている点は見逃されるべきではないと思う。つまり、排除の動きに対抗して、多様性を認めようという訴えかけ、方向性を持つにしても、そこには身体的な確かさがなければならないし、それが中心に来ていなければならないのだ(何度も書いているように、頭を中心にすれば、結局それは正反対の同質化を招くだけだから)。

 若者が(別に若者に限らなくてもいいのだが)、非人道的な、あるいはいかにも怪しそうな方向へスルスルっと惹き寄せられていく。大人は、翻意をうながそうとあらゆる言葉を尽くしていく訳だが、いくら情を込めて語ろうが、正確な論理を持ってして語ろうが、おそらく何ほども響いていくことはないだろう(それは今後もずっとないだろう)。それらの言葉には身体的な確かさがまるでないからだ。抽象化抽象化、あらゆる範囲を覆えるようにもっといろいろなものに当て嵌まるように抽象化抽象化抽象化・・・。その作業によって要素を取りこぼし続けた末の言葉たちの、何とふわふわ浮いていることか身体的確かさのないことか。それに比べて、善悪は別にしても、

「ぶち壊せ!」

の一語が、いかに身体的強さを持っていることか。そのことをよく考えてみなければならない。あなたが丁寧に説得して語りかけているその言葉の端から端までが、まるでその若者にとっては、外国語であるかのように響いているのではないか、ということをもっと考えてみなければならない。

 すると、多様性を頭で考えていく訳にはいかない。かと言って、排除だってよいとは言えない。どうすると言うんだ、どうするつもりなんだ? そうなのだ。行く道がないように見える、どこへも行けないような気がして驚いているのだ。ひとりで驚いてひとりで塞がっているような気分になって大変滑稽かもしれないが、笑いごとではない、いや、笑うしかない?

 自然を破壊してしまうのは、人間が悪いからか。実際そうだとしても、私は、悪いという結論で終わるのが好きではない。もっと見なければならないことがあったかもしれないのに、悪いという一語が発せられると、そこで話が終わってしまうからだ。自然を破壊してしまうのは、人間が、頭で考える生きものだからではないか(悪いとか悪くないとかではなく)。頭で考える生きものは、多様性と折り合いが悪い。自然の多様性を何とか守ろうとするとき、そこは進入禁止区域となったりする(入らずの森のような・・・)。その仕組みと、排除ではない方法との融合は・・・? 地球上で活動しているものは当然人間だけではない。人間のように多様性を頭で考えて、結局同質化に向かわせてしまっているというのでなく、実際にどんどんと新しい種類が出てきていて、分類が追いつかないというような領域はあるのか。そこにはどんな動きがある? 多様性と折り合いが悪いのなら、頭だけでズンズンと進めるのをやめて、多様性を実際に実現させている生物あるいはその領域に、それこそ頭を下げて素直に教えを請うしかないのではないか。