<486>「さわがしさとの断絶」

 なんでもないような状態、平穏な状態というものの有難みが、もう少し確かな実感としてやってくるといいのだけど、という願いは別に正当なものであろうし、そんなに変な呟きだとも思われないが、しかし、なんでもないような状態は、なんでもないような状態として現れてくるからこそ「有難い」のだし、なんでもなさに有難みを、そうしょっちゅう感じていたのでは、忙しくってしゃあないという気がする。それでは疲れる。異常な状態から、なんでもない状態へと戻る。それは、大変に素晴らしいことだが、それを感じられるのもわずかな時間だけで、なんともない時間にまた戻ったときの心情はやはり、

「なんともないな(何と言うほどのことでもないな)」

というものになり、そのあっけなさというのは笑いを誘う(さっきまであんなに大変だったのに!)。30分前までは、

「もう死ぬ!」

とすら思うような苦しみの中にあったのに、今は優雅にコーヒーを飲んでいて、周りの人と和やかに会話を交わしている、なんてなことも当たり前にある。一見するとそれはおかしなことのようだが、瞬間々々がそれぞれで真実であることを考え合わせれば、別段おかしなところはない。

 瞬間々々が別々に真実であるからこそ、その不連続で感激や、満足などがそんなに無い代わりに、精神的(身体的にも?)には割合に助かっている部分がある。ついさっきまでの辛い状態も、過ぎてしまえばそれほどでもない、というより、過ぎてしまうと、それが時間的に非常に近い過去であろうが、今現在との間には深い断絶が生まれていることに気づく。