<498>「生活の沸」

 生活が、この動きではなかった気がするなかから、また同じ繰り返しへと戻っていくのを見て、やはり生活はこれであったのだという、確認にも至らない確認みたいなものをここへ持ってくる。ただ、細かいことが、それに対して抱く意識が、それと分からないぐらいに少しずつ変わっていっていて、そのことにも気づくのだが、気づいたところで別に驚いたりする訳でもない。驚くのが嫌なのだろうか。そうでもない。驚くのは好きなのだ、というより、当然のリズムとして受け容れている。

 仕方がない、受け容れよう、と言う。しかし、

「いやあ、とても受け容れられませんね、これは」

と言ったら、起きてしまっていることを受け容れなくても済むようになるのか。そんなことはない。起きてしまっていることはそのままこの場に在る。だから、受け容れるとか容れないとかの選択肢は、本当は存在しないはずなんだ。起きてしまっていることは、私と密接不可分ではないか。受け容れる云々は関係ないではないか。

「何でも受け容れている人だ」

と思うかもしれない。しかし、それは必ずしも肯定とは限らない。起きてしまっていることをただそのまま見るようにしているだけかもしれない。