<790>「好悪の芽」

 何でこんなことを書きだすのかと言えば、あなたの一番遠くの遠く、その好きの、得意の芽を見つけて掴んでおくことが大事だという話を素直に聞いたからで、素直に聞いたのは随分前で、その時に思い出し済みなのだけれども、今、その時分の辺りのことをくっきりと見るような思いがしたから、書く。

 担任の先生から察するに、小学校三、四年のどちらかだと思うが、詩の授業(?)があったか、課題が出るかした。題名に縛りもなく、自由に書いていいとのこと。私は、

『家族』

『夕日』

という二つの詩を書いて、出した(と思う)。その後、クラスみんなが提出した詩を、クラスみんなが各々で読み、誰の詩がよいと思ったのか、ひとつ選ぶという作業があった。私が一番の票を集めた(『家族』が票を取って、『夕日』はまた後日書いたときに改めて褒められたものだという気もする)。今考えるとムフフと思うが、当時は限りなく驚いたろうと思う。というのも、書いたあと、詩のことなど忘れていて、特に何とも考えていなかったから、面食らったのだ。

 クラスで票を集めただけでなく(いや、だからなのか)、先生まで褒めた。小学生に対するほんのザレゴトだと思うが、

「あなたは詩人になった方がいいよ」

と言っていた。詩人が何を指すのか、ぼんやりとしか分かっていなかったと思うが、嬉しかったことだけは憶えている。

 こんなことを言うのもなんだが、その先生とはあまり仲が良くなかった。私が不真面目であったせいで、親は学校から電話を受けるのだが、そのとき担任の先生と話し、のち、あなたが悪いというのは分かるけれどもそれでも先生からはあまり良い印象を受けなかった、などということを言っていた。私もとくに嫌いでもなかったが、褒められた割に、好きな先生として印象に残っている訳ではないのがなんとも言えない。

 しかし、『夕日』は素朴で何とも小学生らしく可愛いから良いとして、『家族』で票を集めたのは今となっては少し不満である。厳密な内容は忘れてしまったが、基本的に、家族賛美的な内容なのだ。しかし、小学生のころの自分には確実に、家族というものに対する恐怖、違和感、嫌悪の情が混じっていた。何故そういった側面も交えて『家族』という詩を書かなかったのか。そんなことを小学生の自分に求めるのは少々酷であるかもしれぬし、また学校での課題ということで、先生に対しての、家族に対しての配慮が働いていたのかもしれない。ただ、それではあれは嘘のままというか、綺麗な側面だけを書いただけのものになる。

 日曜日の朝食に、家族全員が揃って(揃うのは別に、小学生時分には珍しいことではなかったが)、テーブルを囲む。そのときに感じる、

「嘘だ」

という感覚、消せない違和感。しかし何が嘘で、どこに違和感を覚えるのか、サッパリ分からなかったあのぐにゅぐにゅした時間のこと、それを今でも忘れることがない。あれは何だったのだろう。後々の亀裂の暗示、いや、亀裂は既にハッキリと姿を現していて、それを見つける力が、小学生の私にはなかっただけだ、と言ってみることも出来るが、少々無理やりに過ぎるきらいがある。