<1065>「思考の色を変えること」

 へちかんさんの見事な散り方

 へちかんさんの見事な散り方を見て何を言う、、

 何を言うのか、、

 どこまでも膨れてゆくものの姿は懐かしく、親しく、、

 しまってしまうことを前提に生きられるものなのか、

 どうか、

 そこらへんはちゃんと考えても分からないところだけど、

 ちゃんと考えたら分かるはず、という考えのそとにただの呼吸があって、

 時間があって、

 ついのしまいをしているという話を流れきいて、、

 それはただの片付けとは違うだろうと、、

 何か思考の色(イロ)自体を大幅に変えてしまうようなことをせぬと

 そのままは無理だろうと、、

 誰か訪ねるものあればそれも良し、、

 ないならまたそれで良し、と、、

 さて、どこで終わりにするつもりでいごいていたのかと、

 ある程度膨らますだけ膨らましてゆくことが大事なのはよく分かる、、

 で、どこで膨らまし切り、と判断するのか、、

 その判断、決断が出来ずにずるずるとゆくのが大方なのではないか、

 だからへちかんさんは見事だという話になるのだろうけれど、、

 そはもう嫌気が差す、ということなのか、嫌気が差しても膨らますことはとめられないのが大方なのだろうが、

 どうか、

 死ぬことを考慮に入れながら生きるのは難しい、

 が、

 生きることに死を挟まずにいるのも難しい、

 が、どうか、

 見事である、というところえ、あまり重きを置くものかどうか、という話もある、、

 おのれのやってきたことにまみれまみれて、無残な姿を見せるのが仕事なら、それを見るのも仕事という気がする、、

 綺麗さっぱりと、とはゆかないという現実を持ちつ見つめつつ、綺麗さっぱりと、見事に、という状況を探りつつ、なのか、、

 普段死ぬというのを考慮に入れているのかどうか、入れていない気がする、、

 それはなにか別のこと、という気がする、

 ついのしまいを始める、というのはその生のなかに別のものを容れる、ということでもある、、

 それは言葉で言うより、というより、言葉で言っているうちから難しいことである気がする、、

 わたしは死にたくない、というのも変な感じがする、苦しくてもがき生に執着するのは、死にたくないという感覚とはまた別のもののような気がする、、

 だからたくさんもがいていても、その上で死ぬのはなんら変なことではないというか、別の次元での話のようなおもいがある、、

 常日頃に死ぬということを本格的に容れてしまうというのはどんな気持ちなのだろうか、

 昨日今日とは思えぬものを昨日今日と感じながら居(イ)るとは・・・