普段楽しい部分を抑えているって、なになの?
いいよ、いいよ、うっかり出てきてしまう部分が楽しさだっていう利点はあるよしかし。
普段抑え込んでいるものが楽しさなのってなになの?
「ねえ、何が楽しくて生きているの?」
という隣の席の子の問いを大事にしている。
自分なりに考えたことは、何かが楽しいから生きられて、何かが楽しくなくなれば生きられない、そういった類のものが「生きる」ではない、ということだった。
しかし、ただ楽しいことがないのではなく、抑えているのだとまた話も変わってきまいか?
楽しさを抑えるのがならいになっているとすれば、過去何か楽しさが表に出ることに対しての不利益があったはずなのだ。
しかしそれが何かは分からない。
また同時に、自分は、楽しさが外に弾(はじ)けてゆくタイプではなく、どんどんと内へ、深く深くなってゆくタイプなのだとも思っている。つまり、顔に出ていなくても、楽しいは楽しいのだ。
楽しさを内に深くしようと思っていたのに、うっかり外へ弾(はじ)けてしまった、という状態が、考えられるのだろうか。
楽しさが内へ内へ深まって全く感知出来なくなってしまうその手前で、定期的に外へ弾(はじ)け出てくれていればそれでいいのかもしれない。