<1144>「関係を限定する」

 ひとりの人とひとりの人として、なんとか、あいだに約束事を挟まぬままに付き合いを続けられないものだろうか。

 社会的な約束事は抜きにして。

 ある程度以上親密になれば、社会的約束事を挟むようにそれとなく唆され、受け容れれば結果としてそのなかに閉じてしまい、周りは一歩遠慮するようになる、という流れがあまり好きではない。

 しかし、その社会的約束事が優位で、充分な力を持っていることを知っているから、社会的約束事だから当たり前だと思いつつ一歩引くひとたちと同じように、納得はゆかぬままに一歩下がる。

 どういった背景を持ち、付き合いを組んでいようとも、わたしと、あなたが会い、そこに親密さが生まれるか生まれないか、その結果がどういう行為として現れるかは、全く自由なことではないか、という疑問は、多分伝わらない。

 何故ならそれはルール違反だということに(驚くべきことだが)、本当になっているからだ(変だな)。

 わたしがあなたを好きであることは、関係を限定する作業とは別のものだと思うが、どうだろう。

 関係を限定する、という行いが、社会的約束事の本質、嬉しさ苦しさの全部である。

  関係をここだけに限定出来ている、よかった。

  関係を限定出来ていないのでは・・・。どうしよう・・・。

 というように。

 関係を限定しないのであれば、社会的約束事を行う必要がない。

 関係を限定したいと思う気持ちがなければ、社会的約束事には馴染めない。

 

 わたしは人のことが好きではないのだと思っていた。好きだという気持ちの延長した先、高じた先に社会的約束事があると当然のように思っていて、その、社会的約束事への思いが希薄であるのだから、出発点としての、好きだという気持ちも希薄なのだと思っていたのだ。

 しかし、関係を限定するというのは、好きだという気持ちと直接的には関係がない(間接的にはある。その気持ちを上手く利用するということ)。このことに気づき、

「誰かが好きだという訳ではないが、社会的約束事を行ってみたい」

「とりあえず関係を限定してみたら? 誰でもいいから」

といった表現がよく分かるようになった。

 関係を限定するという作業に、好きだという気持ちはあってもなくてもよい。

 横道に逸れるが、冷え切った関係にあると思われていた夫婦が、浮気などの問題で大騒動になり、

「やっぱりなんといっても夫婦だから愛し合っていたんだね」

などと評されることがある。

 それが全て間違いだとは思わないが、社会的約束事の本質が、関係の限定、相互拘束にあることを考え合わせると、その怒りの主な原因は、契約を破られたというところにあるのだと思う。しかも、相互拘束という、互いが我慢をし監視をする契約だから余計にタチが悪く、怒りはなかなか収まりにくいものになるのではないだろうか。

 また戻って・・・。わたしは、大層ひとが好きだ。他人と内心を較べることは出来ぬから分からないが、おそらく人一倍好きという気持ちが強いのだ、というように感じる。

 しかし、そこに関係を限定する云々の話が上ると、非常に暗く、沈んだ気持ちになってしまう。なんと重たい社会の前提であろうか。

 つまり、好きだという気持ちだけをそのままに持っている人間、わたしのような者は、厄介なやつだということになるのが想定される(関係の限定という作業に向かう姿勢を持つ、というのが、あまりにも当たり前のこととして多くの人に把握されているからだ)。

 そこで、わたしが何をするかと言えば、言葉を尽すことになるのだが、これによりまた一層嫌がられることになるだろう。

 なぜなら、言葉を尽くすまでもなく明らかである、ということに関係を限定するという行いの利点があるからだ。

 今われわれは社会的約束事を行っている、相互拘束という不快なものも背負った、言葉など尽さなくていい、あなたは遠慮して一歩下がりなさい、という訳だ。

 この約束事が優位で、当たり前の力を持ち続けている以上は、好きだという気持ちだけを抱え、自分の思うように勝手に動くのはわがままであり、迷惑である、ということになるだろう。

 であれば、一番は、関係の限定に自分も馴染むことであるが、関係を限定するという、ひとの気持ちだとか自由だとかを馬鹿にしているようなものにはどうも上手く馴染めないだろうと思う。

 誰かに会い、誰かと関係を楽しく取り結ぶ、という可能性を、(例え親密な間柄であったとしても)他の人間によって制限されるいわれはないはずで、こんな不健全なことをお互いに行使し合っていれば、関係自体が苦しくなるのも道理だろうと思う。

 わたしとあなたとの関係は、限定されなくともよいし、決まらなくともよいのだ。しかしそれでは常にコミュニケーションを取らなければならなくなる、言葉を尽していなければならなくなる。ただ、それこそが、ひとりの人とひとりの人が出会うということではないだろうか。