<1186>「仕舞うつもり」

 例えば、事故や事件、病気なども含めて、完璧に、完全に計算の中に容れることが出来、つまり突然に、意識しないままに死んでしまうということはまるでなく、あなたは何年後の何月何日何時何分に死にます、ということがハッキリ分かるのが人間存在というものだった場合、人間の生き様というものに、仕舞い方をもっと上手く容れることが出来ていただろうと思う。

 ただ、現実の人間というのはそうなっておらず、突発的な死というものはいくらでも起こり得るし、もう高齢で余命いくばくもないということが分かっている場合でも、それが今日か明日か、今か30分後かは厳密には分からないようになっている。

 そうした状況に置かれれば、当然、

  今日は仕舞わないつもり、今は仕舞わないつもり

で日々を生きてゆくことになるだろう。

 逆に言えば、今仕舞うつもり、を突き詰めると自殺になってしまうのかもしれない。

 終点が明確になっていない以上、意識的であれ無意識的であれ、昨日今日とは思はざりしを、が常態になっていくのだと思う。

 それはいいのだが、悩ましいのは、

  確実に死ぬという事実

が、その常態になっている生の論理と見事にバッティングするということなのだ。

 終点が分からないのに確実に死ぬことは分かっている動物に、死の論理をしっかりと組み込むことは想像以上に難しい。

 そんなこと出来なくていいじゃないか、別に構わないじゃないか、と言われればそれももっともなのだが、確実な事実として死がある人間の、その社会が生の論理だけで動けばどうしても生理に合わないことが出てくる。

 つまり、ほどほどとか、もうそろそろ、が無しになってしまうのだ。

 仕舞わないつもりの延長上にある考えは、とことんまでゆくか今終わるかの両極端になってしまう。一方でどんな身体状況にも逆らう延命が考えられ、一方で自殺が膨大な数にのぼるのも死の論理を上手く組み込めずに、生の論理だけでものごとが進んでいることの特徴ではないだろうか。

 しかし終点を明確に知れないものがどうやって死の論理を組み入れたらよいのだろう。良い考えがまるで浮かばない。

 亡くなった家族の、その家に残されたものを片付けるのが大変だと言う。

 しかし、仮に死期が近いことを悟っていたとしても、それを踏まえて、死ぬ前に自分で自分のものを、見事に片付けてゆくのは並大抵のことではないと思う。それは、ただ片付けるということではなく、

  今仕舞わないつもり

に、

  これから仕舞うつもり

を徐々に徐々に、深く深く容れていく作業だからだ。これから仕舞うつもり、の按配が上手くいかず、今仕舞うつもりに傾こうとする危険を何度も何度も感じることだろう。

 これから仕舞うことと、今仕舞うことの違いが、境界がよく分からなくもなるだろう。

 だからこそ普段の日常には、仕舞うつもり自体を容れないのだが、それを締め出して進める考えにはいろいろの不都合がある・・・。