<1265>「私というのはもっとも広いんです」

 余分な音響を、、

 身体を振り乱しては流れる、・・・

 もっと外へ、

 ひといきのひとが次から次へと外へ、、

 流れている、

 

 私だけが嘘の鐘を携えていると全世界的同時的に思う人々、

 私だけが嘘の響きをさせると思うことが普遍的であること、

 一体これはどういうものだろうか、

 嘘の鐘、 嘘の響きだと思い合わせているところまで静かにおりていく、

 その所作は、

 私は黙ってしまう、、

 あまりに物悲しい響きをききながら、

 しかしなお、歩で、歩に重なり、

 一辺のざわざわとする場所、、

 

 私というのはもっとも広いんです、

 それがどんな意味か長いこと分からなかった、

 ただその方が格好が良いような気がするから、私も、

 私というのはもっとも広いんです、

 と、 やや勝ち誇るような身振りで言っていた、、

 言っていたんですね、

 しかし 只今はなんとなくでも分かります、、

 みんな、 というものがどこにもなく、 そんな名で呼ばれても、「私」にはピンと来ないというもので、

 無数に生きる人々、それは、「私」という うそのしかたをしいられていて、

 当然、その仕方のなかにはいれば、 ここから鳴っている音だけ、 が嘘だ(あるいはわたしだけ本当というのも同じことです)と感じられるものであるし、、

 そんなもので、みな、というまとまりようのものはただ「私」をしいられている ひとりひとりのひとだけであるので、

 私というのはもっとも広いんです、

 私という経験は、

 私だけ、を持って、それを越えて、おりて、もっと広いところにまではいらなければ、

 そうでなければよくものが分からないような気がするのです、、

 あるいは、 そうなるまえによく分かっていたものを、なにかまとまりようのもの、存在のしない仕方でかため上げてしまったときに分からないことが増えたような気がするんです、、

 

 ひとりの身体はとても頼りないものなので、、

 まとまりに対してひとり置かれているという想像が、

 場にあることを困難にさせるけれども、

 そうしてひとりこの場に馴染まずぽつんとつままれて置かれてしまった、

 という意識がもっとも広く、まさにそれこそが全部の経験であるならば、、

 その当たり前にさびしい時日は困難ではないのです、、

 わたしは、 安心しているわけではないのでしょうが、

 いることが普通になると思いました(ここから)、

 そうとすれば、余分な音響、

 まったく、

 余分な音響だけがあるんですね、