あたしはうしろからそのおおいのなかへ、、
歩をたらりたらり、、なに、
見覚えのある、懐かしいところのために、、
ここから、ずい、ずいと滑って、、
身体なんぞというものをここへ渡してくれた、、
(基本的にこれは喜びとしてあるんですよ)、、
なるほど、あたしはいつまでも、、動いていた、
なるほど、なにともなく、なになせるかともとわず、がたん、
、、
がたん、
、
と、言葉のなかで、いくらか、熱が出る、、
ほんのその、さまよい、仕方、、の奥に、
私がいくらか出ている、、
確かめている、、空気を、なにとはなく、ほんの、後ろの方で、
よわいを、呼気を、この圏に当てて、、
(それで今生まれたんですから、はい、言葉がいくいくつもの、ふるえの先端になっているのですから)、、
と、すみやかに出でた、
ここは何処ですか、、
あたしが生活を営んでいるところです、、
そこは空気ですか、
はい、空気もあります、、
空気のなかで、生活するのですか、、
はい、なんといいますか、生活は、空気です、、
それでは、あなたも、空気なのですか、、
はい、空気ですが、生活として見えていますし、生活として伝わっていることの方が多いのではないかと、、
それは、それは・・・、
なにぞというとこの全体はどこどこまでも軽やかさを目指しているものに思えた、、
うたいのわたしの向こうで、、ひとり華やかに、、
ひとり和やかに歩を進めているものたちが当たり前に見えてくるのでした、、
それはかたらない、からだのあるところで、、
ひそかに、だんだらだんだらと湧き上がり、ここいらへんへ、
あたりまえに、繋がってくるのが見えているのでした、、
それで、あなたはずいぶんと軽いと思いますが、
そうですね、生活ですから、、
身があり、ひとつひとつが、やわらかなのですか、、
やわらかでしょうか、どうなのか、、少し、流体です、、
流体で、あなたは、そこでの生活なのですね、、
そこでの生活は、軽やかですから、、
これだけのすみやかさがあればとうぜんここにはイッセンネンからニセンネンくらいは簡単に入ってしまうだろうという見積もりが立てられました、、
それは、本当の話ですか、、
本当の話かどうか、私は、三十年にも満たないところを浮かんでいますので、なにともなにとも言えませんが、じっさい、ニセンネンからもっともっと先のうたいまで当たり前に入ってしまうんじゃないかとおもいます、、
それを見て?
いいえ、、それは身体のつくりこみにそのまま接していることで、僅かに感得出来ることです、、
私もこの肌を見ていますが、これで?
これですが、肌を見ているのではなく、、ただ小さい粒が触れるところで同じようにうたいだすだけなのです、、
長く漂い、その、プールのあいまに、小さい、浮かび、、
わたしはその光のねらりと沈黙して入ってくるところへ、
いっさい、身体、全身を向いている、、
・・・、
立ち上がって来ましたね、、
ええ、立ち上がりの姿、それにはいくつものニュアンスがあって、組み立てがあって、香があって、そしてあなたも私もありましたよ、、
どうですか、それは、うまく軽いのではないですか、、
ええ、うまく角度へ入って、うまく結えました、
うまく結えると、こんなに軽いのかなあ、、
わたしは、正面に、いくつもの手をしました、そして触れました、、
時間があまりにも重なって、あまりにも肌になった、、
肌の向こうで、全体が、多少生活、多少空気、というのは、どういう訳でしょう、、
私が一粒になったら、、
ぜんたいそのなかにはいって泳ぎ泳ぎしていたい、、
決して尽くされることのないような、泳法を試みて、、
あ、泳法、平泳ぎ、
そうきっと、というか当たり前に、平泳ぎを使う、、
だって、どうして、、いつまでも尽きずに、続けていかれるということが、一等ではないですか、、
顔も上がり、、
反射のなかで息をしていて・・・、