例えば、あたしは、長い時間、授業の際に、伏せっていたんです、、
それが、そのさいの振舞いの、一秒、一秒ごとが、情報になる、ということは、知らずにです。
ただ単に眠いから、という以上のことはないですよね、
それが、情報になる、ということは、立場が反対になってみなければ分からないことだった。
高校生の頃の自分というものに、よく出会い、その毒を受けるようなことが増えてきた。
どういう毒か、毒とは何かというと。
皆が一堂に会する形で、その教えを受けているなどという状況は、まるでつまらないと思っていた過去のあたしがいること、
学ぶということが、面白く自分の中で生き始めてきたのは、提供物こそあれ、能動的にそこへ関わり、スケジュールも、自分で管理するようになってからだということ、
「自らすすんで行うというのはなんと楽しいことだろうか」
と。
現実の場所や、そこに参加してくる人たちの誰も悪くはないのです。
ただ私は私自身の毒に、毒の跳ね返りに当たっている。
この状況をどうするか。
毒を感じていないと考えて振舞うのは無理なことです。
しからば、その、面白く生きてくる状況というのを、提供し、サポートする形を取れたら良いのでしょう。
やることはいくつかあると思いますので、それをひとつひとつ、ということになりましょうか。
そんな形で、毒を上手く、いえ、上手くじゃないですね、スローテンポでも、粘りでも、なにでも、消化していくということに尽きるのでしょうか。