<1674>「感想」

 あれ、はしゃぎのなかを、順次、渡って来ていたのですね、、

 あれ、はしゃぎの、

 物事を、二重否定の仕方で、見極めること、、

 長くは居らないだろうといって、、今すぐに切断しないこと、

 流れを穏やかに、

 移行を穏やかに、、

 そんな方向性を持っていくのでした、、

 

 見えていないものが進んでいる、、

 どうかして、事の処理の仕方、

 それを眺めているところから、来る、、

 あれ、なにだろう、なにだろう、来る、

 来た、ものを、着た、ところ、、

 あなたには違う流れが、

 それぞれにどうとどうと含まれて来ているので、、

 ああなにだ、このような行きが、

 はっきり映るので、

 特に、特に、見えていないところの、巻き方を、、

 感じないなりに、手を当てていてください、

 と思うね、、

 

 これが重なって、一体、目に見える形で、どこへ行くのかと、とうても、巻いている、、

 巻いているものに、日、日、日、と、含まれているだけなので、、

 私はどこかへ行く訳ではないんですよ、、

 そこに居たまま、、

 なにか居たまま、、

 おそらく巻きの紋様が、、

 彫られ具合が、、

 よりアバウトなところが、、

 あふれていて、

 あふれたままの姿で、ありえている、、

 

 ありえているものをそのままに見るったって、、

 顔を眺めていても、

 あれ、この人はこんな顔だったかしら、なんて、

 分からなくなるところがあるものだからさ、、

 それを順次正確に口にふくもうったってそうはいかない、、

 程度をわきまえるなどという話ではなく、

 日、日と重なるうち、ここまで巻いてくるものが異なるか、という、、

 当然の驚きに、身体を浸けているほかはないでしょう、

 

 否定から領域が照射される、、

 その程度のものごとでべつに構わないのだ、ということ、、

 考えてみると、この傾向性を持ち合わせて、、いるのを、

 どこの時期から、と、はっきり言うことは難しいなあと思う、、

 それでも、手をひかれて、、豆腐屋の香を嗅いでいるときからもうずっと、そうじゃないかしら、

 という、気がする、、

 あたしが不思議でなくて何が不思議だろ、、

 分かっている物事は、少ないのではなく、

 感知することが難しい、、

 だから、、探り当てるというほどのこともないが、、 

 時折手を置いたままにして、

 触れていたら、いくついくつ、などでは言えないところのものが、よく分かるだろうと思うのだし、実際にまたそうだ、、