それはまたどうしてここいら、内側に当たり、、
名を通して、
こちらへ迫って来るのだろう、、
こちらへ迫りながらも等しく心地良く、、
私はそのなかで静かに呼吸をする、、
届く、届く、、届く、
いちにんの揺れざまが外の空気と別々であるはずがない、、
それは打ち、
それは跳ね返し、それぞれのもののなかで、きこえて、動いて、
今にひとつの表情を伝える、、
表情を流れて伝えながら、
そこにいる場所、
そこの回転のしざまの場所に、、
ある、、
あ、私はひとつの波を生成する、
身体の、
もっと出来上がっていくように、と思った、、
だいいちあまり苦労して、苦心して、という言葉には、馴染まないしかし、
淡々と あまり波もなく、トレーニングしていくのだと言われれば、それはそれで納得するようなところがある、、
ので、そこから波で、、
取り込んだ、、
取り込まれているものはここまでひろがってきましたと、、
今ここまで滑らかに行くのは時間がここまで重なってきたからなんですよ、と、
この瞬間の全て、という捉え方をしてしまう自分自身には言い聞かせている必要がある、、
他人を見ているときには時間の経過というものを素直に把握できて、
そうだそうだこのまま途中に何があってもそのままあなたはトレーニングしていかれる大丈夫と思えるのに、、
こと自身となるとその途中々々の全てが全体であるから、
内側にあると時間の経過を健康に信じそくねるところがある、それはだから随時声掛けを自身に対してしていくよりはほかにないだろう、、
そうそう忘れていたことを思い出した、、
他者が受け入れるか受け入れないか喜ぶかがっかりするかという事実は厳としてあれど、そこに足を置くのではなく、、
自身の行いがより良くなるにはどのようにしたらよいか、それはまったく他者の期待ということを考慮に入れずにやっていく、、
すると、結局はその方が自身も他者も幸せな結果になることの方が多いこと、
そして全ての他者が満足することはあり得ないこと、、
このことをまた忘れていた、、
本で読んだ、理屈として頭に入っても身体に定着するまでにはそれなりの時間がかかる、というのはそういうことなのだろう、、
あまり、頑張りたいのか自分は、などと問い掛けても、イエス・ノーどころかピンと来ないのは、、
気分で何かを行うという身体の事実を徐々に外していっている過程のなかにあるからかもしらない、、
私は時間の経過、その新しい皮の一枚の重なりを健康的に把握したい、
という願いがあるらしい、、