まったく一息のなかに生きてきて、
またはじめる、
エンジンをここにかけて、少しあたためる、、
なにだ、なんという、、
身体がついているということの涼しさ
涼しさに全て含まれて、、
また私は流れて、歩いている、、
それぞれのなかに育ちながら、
それぞれの香を含んで、、
私が通常記憶として思い浮かべているものは目で見たものに限られているのではないか、
と昨日偶然、予想もしなかったところで、匂いを嗅ぎ、それがある一連の出来事の場所と同じ匂いだったから、思った、、
そして匂いがしなくなると、もう、、
その香りにまつわる記憶はどこか奥に入ってしまって、出てこない、、
ちょうど、この同じような陽の、入りだったと思い、、
そこへすぐさまに戻る、
ああ、ここだと思い、
あれ、こんなところへは、初めて来た、と思う、、
時々、場所と、他の場所がくっついて、
夢かな、
夢の中のような、記憶の辿り方だ、
記憶を辿るというのは夢の中を辿ることなのだろうか、
同じではあるまいか、
いや、まったく同じではあるまい、、
電車の中で、
それもまた偶然、学生時代の、歳が2つほどは離れた先輩を見つけた、、
会って話す訳でもない、
よく憶えていないだろうから、、
私もよくは憶えていないことが、多いような気がするから、
見知った後、
何か、関係が深まる契機も必然性もなく、
ただ見知っているという形だけが残り、
あとはおぼろになってしまう関係性というのは、なんとも、
あ、何々さんだ、、
という発話が、全て、
不思議とも、困惑ともつかない、、
そのような場で、ひとりの記憶が踊る、、
それで、この前、何々さんにあったんだよ、
と話しかけても、
ふん? へ?
と相手はピンと来ない様子で、
それもそうだ、私は勘違いに気がついた、、
電車で見掛けたのは中学時代の先輩で、
その話をしている相手は高校時代の同級生だった、、
曖昧な記憶はこのように、曖昧さゆえに時代を移ってしまう、、
そんなことはおかしいではないか、
いや当たり前で、だからお互いに微苦笑をする、、